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ホーフブルク

ホーフブルクとは

ホーフブルク の入り口であるミヒャエル門の中でシシィミュージアムや銀食器コレクション、皇帝夫妻の居室が見られるチケットが買える。

ハプスブルク家の皇帝が歴代暮らした王宮であり、13世紀から20世紀に至るまで帝国の発展に合わせて拡張が重ねられ、バロック様式やルネサンス様式等、各時代の様式が迷路のように複雑に入り組んでいる。ホーフブルク宮殿はウィーンを象徴する建物であり、人気の観光スポットとなっている。入り口は↑のミヒャエル門。最古の部分は、ハプスブルク家に発祥の地であるスイスの衛兵が宿営し守っていたので、スイス宮と言う名が残っている。スイス宮の1角にはウィーン少年合唱団の天使の声が聴ける王宮礼拝堂もある(要予約)。最も新しい王宮は1913年まで工事が続けられ、拡張予定であったが、完成を待たずして帝国が崩壊。18棟もの荘厳な建物があり、部屋は2600に及ぶ。19の庭園に教会、図書館、乗馬学校、美術館等のあらゆる施設が集まっている。端から端まで歩いたらもう疲れるし、1日ではとても周りきれない広さ( ´∀`)

王宮内は見学が出来、観光客で賑わっっている。王宮内は実際に使われていた銀食器のコレクションやエリザベートの愛称であるシシィから名付けられたシシィミュージアム、エリザベートの夫であるハプスブルグ家最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の居室へと続いている。フランツ・ヨーゼフ1世は兵士のように暮らすことを望み、質素な鉄製ベッドを使用していた。一方、エリザベートの部屋にはつり革や肋木などの美容体操器具が設置されている。いつの時代も女の美への追求は半端ない╰(*´︶`*)╯♡美しい容貌で知られるエリザベートは50歳を過ぎてもウェストサイズは50cm以下であった∑(゚Д゚)旧王宮にある皇帝夫妻が実際に暮らした部屋やスイス宮にある貴重な宝飾品の展示は必見。

ハプスブルク家

ホーフブルグ宮殿と切っても切り離せないハプスブルク家。元はスイス辺境の弱小貴族だったがウィーンを拠点に645年に渡り広大な領土を統治し続けたハプスブルク家。他の王家と婚姻関係を結び、戦わずして所領を獲得するという独特の外交戦略によって、他に類を見ない繁栄を極めたことが名門と言われる所以である。

1273年に全く期待されていなかった当主ルドルフ1世が選定侯から操りやすい飾り物のドイツ国王として選出されてから以後、選定侯の予想に反して実力を発揮٩( ᐛ )وハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占し、強大な帝国を築き上げた。マクシミリアン1世の時代の家訓は「戦は他国にさせておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」だった。以後、ハプスブルク家は政略結婚を繰り返し、ヨーロッパを席巻した。また、多産の家系であったことも功を奏した。有名なマリー・アントワネットのお母さんであるマリア・テレジアは16人もの子どもを産み、数々の国家の近代化を推進、華やかな宮廷文化を開花させた。

ハプスブルク家の伝統だった政略結婚が良かったのか悪かったのか・・・19世紀になると、帝国内には多様な民族が入り乱れていたが、そうした諸民族に独立意識が芽生え、大きなうねりとなって帝国を揺るがし始めた。民族独立の動きが第一次世界大戦へと繋がりオーストリアは敗北。民族自決の原則によって帝国は解体され、ハプスブルク家の栄華は終わった。

エリザベート

元々バイエルンの名門貴族に生まれ、豊かな自然に囲まれてのびやかに育ったエリザベートは類まれな美貌の持ち主であった。夫である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだのは16歳の時!若っ(◎_◎;)本当は皇帝フランツ・ヨーゼフはエリザベートの姉と結婚するはずだったのだが、見合いに同席していたエリザベートに一目ぼれ💖\(//∇//)\結局、皇帝フランツ・ヨーゼフはエリザベートと結婚し、エリザベートが皇妃となった。エリザベートのお姉さんの立場複雑だろ・・・( ̄∇ ̄)

エリザベートの美への執着は凄まじく、朝から水風呂に入り、いちごや生肉の顔パック:(;゙゚’ω゚’):をした。床まで届く長い髪には何時間も手入れに費やし、夜は姿勢を真っ直ぐにするために枕を使わなかったという。食事の際には、生の牛肉の絞り汁(激マズそう∑(゚Д゚))、果汁、卵白ジュース等自ら決めたものしか口にせず、器械体操や長時間の散歩を日課をし、過度な運動とダイエットをしていた。4人の子どもを産んだ後も173cm48kgウエスト50cm以下をキープ!!細い体に白い肌、豊かな髪を持つ彼女を皇帝は深く愛したという。エリザベートは夫から愛されていながらも夫の浮気や姑との対立等苦悩を抱えていた。

ミュージカルのエリザベートでも名シーンとして知られる場面として、窮屈な宮廷暮らしや皇太后ゾフィーの厳格なしつけや執拗な干渉に悩まされるエリザベートの様子を描いたシーンがある。どこの国でも嫁姑問題は一緒( ;∀;)次第に公務を避けて旅に救いを求めるようになった。放浪記は生涯続き、最後暗殺された時も旅先のスイス。暗殺は一瞬の出来事であり、エリザベートの付き人曰く、エリザベート自身も小型ナイフで心臓を刺されたことがわからず、刺された後もエリザベートは前方へ歩き続けたという。暗殺したイタリア人は「貴族であれば誰でも良かった」と供述。夫や子どもを残して死ななければならなかったことを思うと無念だったろう。

フランツ・ヨーゼフ1世

ハプスブルグ家最後の皇帝であり、68年の在位期間は苦難の連続であった。1848年、ウィーン体制下で抑圧されていた自由主義と民主主義運動は食糧難や不況に対する民衆の不満と重なりヨーロッパ中に吹き荒れた。パリの2月革命が起こると、ウィーンやベルリンで3月革命が起こり、ウィーンではデモ隊と軍隊が衝突。プラハやブダペストでもオーストリアからの独立を叫ぶ運動が激化し、ナポレオン没後のウィーン会議でフランス革命以前の絶対王政を復活させたウィーン体制が崩壊。そんな情勢の中、フランツ・ヨーゼフ1世は18歳にして諸民族の独立運動を沈静化するという対応を迫られた。エリザベートとの結婚後もドイツ統一を巡り勃発した普墺(ふおう)戦争はわずか7週間でプロイセンに敗北し、オーストリアはドイツ統一における影響力を失った。その翌年の1867年にはハンガリー人の要求に妥協してオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立。その後、息子のルドルフが亡くなり、エリザベートが暗殺され、甥で皇位継承だったフェルナンドがサラエボで暗殺された。これをきっかけにして第一次世界大戦が勃発。戦乱の末、オーストリア・ハンガリー二重帝国は解体され、ハプスブルク家による支配も幕を閉じた。

フランツ・ヨーゼフ1世は兄弟の中でも母のゾフィーからは大変厳しく教育され育てられた。皇帝に育てた熱血教育ママのゾフィーは息子のフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの姉を結婚させたがっていた為、息子がエリザベートを選んだことも面白くなかったし、皇帝を育て上げた息子溺愛教育ママであったから恩着せがましいエリザベートへの過干渉があったことも想像に難くない。要は暇だったんだな( ̄∇ ̄)フランツ・ヨーゼフも嫁姑の仲は周知であり、複雑な立場であった。普段はママの意見に従い、ゾフィーが居ない時はエリザベートへ寄り添っていたという。庶民だったら「ふざけんなo(`ω´ )o」と嫁から叩かれてそうな夫であった。

おまけ

因みにホーフブルク宮殿でも結婚式ができるので、私は結婚式の候補地の1つとして大変迷いました( ´ ▽ ` )

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